「変わるべきは社会だ」

障害を持つ人を見て笑ってはいけない

これは中学生の時、障害者施設にボランティアに行った私が、密かに心の中で抱いていた言葉。
ボランティア活動なんて、聖人のような気持ちで臨んだのでもなく、あくまでも受験前の内申を少しばかり有利にするための行為だった。
でも、その時の光景が私には今でも心にとても大きく残っている。

健常者が、障害者施設にボランティアに行く。
私が彼らに何をやってあげられるのか。
半分興味にも似た当初の気持ちは、施設で過ごす時間と共にどんどん薄れていった。
中学生の健常者という、ニコニコもしない女子は、その施設で、ただ言われた通りにしか動けず、大して役にも立たない一人の女の子でしかなかった。
では、施設の利用者さんはどの様に私に接して来てくれたかと言えば、ただニコニコと笑って、ただ楽しそうに時を共に過ごしてくれた。

実習時間が進むにつれて、偏見なんて持ってないと思い込んでいた自分の気持ちは実はとんでもない間違いで、彼らとの違いをハッキリ認識して、心の中に無意識に壁を作っていたのは、他ならぬ自分だった事に気づき、私は深くショックを受けた。

後に掘り下げた、自分の本当の気持ち。私は、こんな風に考えていたと自認した。

障害者は弱者で、健常者は強者。
障害者はいくらか可哀想な人達だから、それを見て笑ってはいけない。
つまり私は、彼らとは違うタイプの人間だ。

私の中で、障害者と健常者は明らかに違いがあると思っていた。

この1日を体験して、ニコニコと笑ってはいけないと思い込んでいた自分をとても深く恥じた。
嘲笑うことと、同じ時間を楽しく過ごすことを混同していた。
彼らより明らかに何の役にも立っていない自分の方が強者で、何かを提供してあげる側だと勘違いしていた。
偏見なんてないよと言葉で言っていた事と、いざ目の前に、違いのある人がいた時の自分の行動がとんでもなく違った。

中学生の私の経験は少なからず今に生きていると思っている。
人は視点により、どんな時も弱者やマイノリティに成りうる。
でもそれは、努力が足りないわけでも、劣っているわけでもなく、社会構造がたまたまマジョリティ仕様に作られていただけ。
逆にいうと、強者やマジョリティもそれが凄いわけでも、偉いわけでも、とてつもない努力が実ったわけでもなく、たまたまだと思う。
これに関しては、確かマイケルサンデルさんも同じ様な事を語っていなかったかな。

状況が変われば、いつだって私たちは弱者やマイノリティに成り得ると思っているし、私やあなただって、少なからず人と違う部分はたくさんあると思う。それが、この社会ではたまたま生きづらさには繋がらなかっただけ。
あくまでも視点の違いによるものでしかないと思うのです。

多様性とか、支援とか、手を差し伸べるとか、あまり好きな言葉でもないし、言葉と実態がずれてしまっては意味がないなぁ、と残念に思う事だってある。

でも、大なり小なり私たちは違いがあり、それを受け入れながら生きていきたいと私は思っている。
でもこれは、手を差し伸べる的な上から目線の話ではなく、あくまでも、違いを受け入れることにより、社会がより良く変化すると思っているから。
いつ自分が、弱者やマイノリティになってもおかしくないが、その時に困らないように、社会が変わるべきだと思っているから。
私が好きな当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎先生の言葉はいつも私の胸に響いている
「変わるべきは社会だ」

何をすれば変わるかなんて全然わからないけど、私は何よりも知る事が第一歩になると思っている。
きっと NANAiRO の井出さんもそんな想いで活動を続けている。


だからこの活動は、どこかの団体だけを支援するわけではなくて、社会に変化を与えるための活動でもあり、広義の意味でいえば、自らに繋げるための活動なのだと思っている。

こんな風に偉そうに言う私は、スタッフの一人でもなく、ただ素敵な活動だと思った1ファンである。
その割に声を挙げるのが、クラファン終了間近という、今更感が否めないけど、それでも、久しぶりに自分の想いとして、こちらに投稿させてもらいます。もしも、心に響いた方は、ぜひお力を貸してください☆

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